底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

三月になりましたね雑談

 

三月になりましたね。二月はブログ的に見ればボロボロだったけれど、そのおかげで自分のスタンスはもうだいぶ変わって固まってきたかなという感じ。今月で通常運転に戻れるかは分からないが、いずれにしても、そろそろかな。書くこと、それが自身の不足を埋めるためでなく、正真正銘の興味として立ち上がる日はもうすぐそこに来ている。これが一皮剥けるって言葉の意味なのかしら、とかなんとか最近はもうそんなことばかり考えて、すっかり調子に乗っているようだ。

 

 

 

書くことが完全に自分の興味として回収された暁には、このブログの記事内容は一体どうなってしまうのでしょうね。自分でもそれは全く検討がつかない。もしかしたら、今までこのブログにあった醍醐味みたいなものがさっぱり消えて、自分が書いていて楽しいだけの記事になるかもしれないし、その醍醐味がより一層洗練されて、読んでいても書いていても更に楽しいという方向に進むかもしれない。後者がベストであるが、前者に進んでも、名残惜しさはあるものの自分としてはいい傾向だ。このブログにそんな醍醐味がかつてあったかどうかは不明ですけれど。

 

 

 

不足を埋めるためとは、つまり普通の言葉で言えば依存だ。今まで私の生活には、書くことと生きることの二つしかなかった。生きるは書くためにあり、書くは生きるためにあった。それ以外の全ての活動はのっぺりとしていて輝きがなかったし、書かなきゃ書かなきゃって、そればかりに気を取られて毎日がとても息苦しかった。書くことを自分の興味として回収するとは、つまり書くことを他の、仕事するとか、料理するとか、音楽を聞くとか、散歩するとかと同列にして、それを「生きている」の中の一つに戻していく作業だ。

 

 

 

生きているの中の一つに戻すことで、そこに自分の人生を賭けなくなる。必死さが消える。それはある意味でとても寂しいことだと思う。なぜなら私はそういう時の自分も大好きだったから。でも、その必死さとはどうしてもコインの裏表になってしまう、マイナス感情を消したくなったのだ。必死だと当然余裕がなくなるから、逆に余裕のある他人が目についてしまう、そういう人に対して一方的に悪質な感情を抱いたり、必死さのない自分をも嫌悪したりする。自由じゃないなって心底感じた。自由じゃないから必ず後悔が残る。それは自分の一番恐れていたことだ。だから改善にひた走った。おかげで、この頃はとても朗らかな気分だ。何を書いていこうかしらね、これから。

f:id:kabiru8731:20230302032914j:image