底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

カフェが好きとカフェが好きな自分が好きの関係

カフェが好き

カフェが好きだ。カフェで人生について思索したり、読書したり、ブログを書いている時間が何より好きだ。お店の雰囲気とカフェ独特の匂いに浸りながらコーヒーを片手に。あぁ幸せとはこのことか、カフェにいる自分は最高だな、とそう思わずにはいられない。あれ、でもこれってもしやもしや俗に言う「カフェが好きな自分が好き」なのでは?おーん?確かに考えてみると、私はコーヒーにも喫茶にも何一つ詳しくない。味の違いも、嗜み方も、その歴史も全く知らない。別に詳しくなければ好きと言ってはいけないということはないと思うけれど、詳しいは好きに表れる特徴の一つであるのは間違いないであろう。もうかれこれ三、四年はカフェに通い詰める生活をしているのに、その特徴が一向に表れていない。ということはやっぱり…?

 

 

カフェが好きな人はカフェが好きな自分も好きだろう

単純に「カフェが好き」な人を想像してみる。コーヒーの味の違いが分かり、嗜み方が身についていて、その歴史に詳しい人だって、きっと「カフェが好きな自分が好き」であるはずだ。カフェが好きな自分はそんなに好きでないけれど、カフェはとっても好きというケースは非常に考えにくい。え、じゃあなんでカフェが好きなの?と問いたくなるくらいには珍しいであろう。つまり、大抵の場合「カフェが好き」は「カフェが好きな自分が好き」を含んでいるのである。問題は逆の「カフェが好きな自分が好き」は「カフェが好き」を含んでいない可能性があるということだ。だからこそ日常では「カフェが好きなんじゃなくて、カフェが好きな自分が好きなだけなんだろ?」なんて指摘が為される。

 

 

そうだとしても好き

自分に酔いしれたいがためにカフェを利用しているだけだろ。そう言われたら否定はできない。実際にそうだろうなと思う。少なくとも、コーヒーの味の違いやらを知りたいとは微塵も思わない。でもだからといって、自分が好きなだけでカフェは別に大して好きじゃないだろと言われたら、それは違う。手段として利用しているだけだとしても、やはりカフェそのものも私はきちんと好きである。マナーは守るし決して粗末に扱ったりはしない。カフェは私がより一層自分を好きになれる場所なのだから、好きでないわけがないのである。

 

 

たぶんね

「何かを好き」と「何かを好きな自分が好き」は簡単に区別できるものではない。何かを好きであれば、何かを好きな自分も好きになるだろうし、何かを好きな自分が好きであれば、その何かをも好きになるであろう。もし「何かを好きな自分が好き」であるのに、その「何か」を全くテキトーに大事にしない人がいるのなら、それは本当は大して自分のことも好きではないし大事でないということであるだろう。

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