底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

物語と現実の好き嫌い

好き

物語が好きだ。物語には絶対に自分は出てこない。自分はその世界の登場人物ではないのに、神の如き視点で様々なところを覗くことができる。登場人物からは自分の姿も見えないのに、自分はそいつらの心の中さえ手にとるように分かる。その優越感がクセになる。それに大抵の物語は現実より面白い。現実の退屈なところは削ぎ落とされ、ピンポイントに面白いところを何倍にも拡張しているから、刺激になってドップリとその世界に入り込むことができる。次はどんな展開が待っているのかとどんどん期待をさせられ、止まらなくなる。

 

 

嫌い

物語が嫌いだ。物語には絶対に自分は出てこない。自分はその世界の登場人物ではないから、その世界の人から認識されることは決してない。どんなにその世界が好きで好きで入れ込んだとしても、いつも自分だけは物語の外にある。結局はあちらこちらを覗くことしかできず、中の誰とも一切のことを共有し得ない。なんと寂しいのだろう。それに大抵の物語には終わりがある。どんなに面白くても、どんなに素敵でも、完結する時にはあっけなく完結する。その時自分は突然現実に戻され、否が応でも退屈で仕方ない毎日と、また向き合っていかなければならない。

 

 

好き

現実が好きだ。現実があるからこそ私は物語さえも楽しめる。物語を見たり読んだりすると、胸に何かの感触がリアルに残る。その感触があるからこそ物語は面白いのだ。物語の中の世界は確かにいつも現実よりも面白い。しかしそれは現実が大して面白くないからではなく、現実の面白さは自分の手で見つけていかなければならないからだ。物語は作者が見るべき視点を用意してくれる、どこをどう追っていけば面白いと感じられるのかを計算して、読者や視聴者にその道筋を辿らせている。だから面白く感じられる。が、現実にはそんな視点は存在していない。あるのは自分に縛り付けられたある意味での定点だけである。面白くしたければ、どう見ていくべきなのかと自分自身で考えていく他はないのだ。自分で考えて得た道筋を進んだ時、現実は物語の何倍も面白くなる。物語に浸って得ていた面白さが、ありありと自分の目の前に出現するからだ。

 

 

嫌い

現実が嫌いだ。現実のくせに物語みたいにいつか終わるようにできてきいる。どんなに面白くても、どんなに素敵でも、終わる時にはあっさり終わる。その時、自分はもういない。否が応でもいずれは消えてなくなる。それまでどんな物語を紡いでいきたいか、よくよく考えていきたいと思う。

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