底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

たまには世界をシンプルに見てみる

対象があることで世界は複雑化する

世界は実はすごくシンプルなのではないかと思う時がある。深夜布団で目を瞑っていると、世界は本当はこれだけなのではないかという気がしてくる。何かを思っている自分と布団に横たわっている感覚。その二つだけ。もちろんそんなわけはないのだけど、でも眠る前のひと時はどうしてもそんな気がしてくるのである。逆に目を瞑っていない普段の時がシンプルではなく極めて複雑である理由は、世界とは別に対象が存在しているからだと言えるかもしれない。対象は世界に数えきれないほど存在している。そのために関係も無数に生まれ、そしてそれぞれが複雑に絡まり合うことで、世界はどんどんカオスになっていく。




対象に囚われている間に死んでしまう

対象に反応する。そのことがあまりに日常化している節がある。日常になりすぎて、それが自然であるのか不自然なのかという定規で測ることさえ、もはや少しも行われていない。対象は世界の中にある一つの小さなものに過ぎないという当たり前が忘れ去られているのである。世界の中にある一つだけに反応するということは、その瞬間はそれ以外のものは見えていないことを意味する。ずっと生きているなら、それでも困らない。次々順番に見ていけばいずれその全てを見られるからだ。問題は人間は死ぬということである。時間制限があるために世界の全てのものを見切ることは叶わず、対象に次々反応していけば、その間に死を迎えてしまうのだ。




人間七不思議の一つ

人の頭はとても不思議で、なぜか無限を理解できる。無限なんて想像してみることもできないはずなのに、それがどういうものかはきちんと分かる。世界も無限と同じである。世界なんてもの見たこともなければ、その広大さもまるで掴めないのに、意味はちゃんと知っている。つまり何が言いたいのかと言うと、対象を全て見切ることはできなくても、最初からその総体である世界の方を見ることはできるのだ。うーんいや、何言ってんだろ。




フィルターの一つとして

世界をそのものを見る。私はその生き方を推していきたい。どの対象に反応するのが正しいのか、その判断基準を人は持ち合わせていないからである。もちろん気に入ったとか好きで決めてもいいのだが、それが正しいのかはやはり疑問として残ることになる。何か一つの対象に執着せず、次から次へと迫ってくる対象にも惑わされることなく生きていたい。だから世界そのものを見る広い視野が必要になる。世界は「本当は」シンプルだ!というのはナンセンスであるが、シンプルに見る「フィルター」はあってもいいと思うのだ。眠る前のひと時と同じように、世界全体をぼんやりとまどろんだ目で。そしたら、きっとそこに残るのは自分と感覚の二つだけ。

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