底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

できることは限られていないから困る

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できることはどうしてこう限られているのだろうか。いや、正確に言うなら、自分の生活をほぼ何の問題もなく一人で送れているというのに、どうしてできることは限られているのだと一々ため息をつかなきゃならんのだ。自分一人を世話できるだけで十分であるはずだろう。自分一人で自分の食べていくお金を稼げる、自分一人分の寝床や食料を調達できる。自分の体調やメンタルの管理をしていける。それが私のできることの全てであり、それ以上に私にできることは何もない。世界はそうあるべきではないですか。どうしてそれができているのにも関わらず、世界はまだ私にできることがあるかのように仄めかすのだ。




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できることは全然限られていない、限られていないから困るのである。およそやろうと思えばほとんどのことはできてしまう。ここでのできるは実際に叶えられるの意味ではなく、何でも行動に移せてしまうということだ。やろうと思えば必ずその方向に歩き出すことができる、人間の恐ろしいところである。逆に言えば、現に歩き出していないのなら、その理由は得てして、できないからではなく、自分が歩き出したくないからである。できるが限られていないからこそ私は、できることは限られているのだと嘆くはめになるのだ。




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要するにその限られていないできるを私は無限に自分に使っているのだ。無限にあるにも関わらず、世界のためには少しも使ってやる気がない自分の器の小ささを嘆いているのである。それはできることが限られていればよかったのに、という意味の嘆きなのだ。本当に限られていたのなら、私はなんの罪悪感も背徳感もなく自分自身に使うことができたのに。世界のために使えるような力は残されていないのだと、きちっと割り切ることができたのに。




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できることは限られている、だからそれは自分に使うだけでめいいっぱいなんだということにしたい。そうすれば、現に世界に使っていない理由を自分を正当化した形で説明がつけられる。本当は使いたいのだけど、使えないんだ、だって自分のできるは限られているから。そんな言い訳をひたすらに並べることができる。しかし、これはやはり嘘である。限りなどないのだ。自分がやろうと思いさえすれば、限界などというものは存在しない。自分が死ぬか現実に実現するかまでは止められない、それこそが意志というものなのだから。結局私はできるを無限に自分に使いたいのだ。そして、そんな利己的な自分からは永遠に目を背けたいのである。