底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

結局死をどうにもできない

二つの自分

永遠に生きていたいと願う自分がいる。死があまりに想像できないものだから恐ろしくて避けられるならそれに越したことはないと考えている。一方で今すぐに死んでしまいたい自分もいる。どうせ長くても何十年かそこらで必ず死んでしまうのだから、残り全てが虚しく生きていてもしょうがないと思う。死を避けたいがために生きていたい自分と、死を乗り越えられないがために死にたい自分が私の中で共存しているのである。でも、よくよく考えなくてもこの二つは同じ穴の貉だと分かる。要するに両者とも死をどうにかしたいのだ。

 

 

無だからこそ

shikouzakki.hatenablog.com

死には各人の人生に対する態度を決めさせる力はないと書いたばかりなのに、またここに戻ってきてしまった...。結局私は死を無視することができないようである。死は無であると書いたけれど、でもやっぱり絶対に死ぬんだよなという思いが私を捕えて離さない。無だとしても無と思えないだもん。いや無になるからこそ、そうなることがたまらなく恐ろしく、たまらなく虚しいのである。

 

 

死に備える二つの方法

死に備える方法はなくもない。一つは今からでも徐々に無になること、或いは同じことだが既に無であると自覚していくことである。もう一つは何はともあれ全てを覚悟してしまうことだ。どちらも難易度が果たしてなく高い。それが出来たら苦労しないんだよと言いたくなる。どんなに死が怖くても死ぬ時は死ぬんだから考えたって仕方がないと割り切れないの私のダメなところである。どうしても死ぬ前に「死んでもいいな」と思えるようになっておきたいらしい。 

 

 

結局八方塞がり

shikouzakki.hatenablog.com

無になることは少しずつだがきちんとやっている。物理的にはできるだけ部屋のものを減らしているし、精神面で言えば、毎日本を読んだり思考したりして自分でないものを学び、それを自分から切り離す作業を行っている。でもこの二つにはどうしたって限界がある。なぜなら私は今まだ生きているからである。だから、部屋のものを全部捨てることは叶わないし、自分が存在している限り全てを自分から切り離すこともできない。これに対しても、生きているのだから仕方ない、最小限に抑えられればそれで上等だと思えないのが、やはり私のダメなところである。ならもういっそ振り切って全てを覚悟する方に向けて努力するかと試みるが、忽ち「覚悟を逃げに使ってんじゃないわよ」という声が頭に飛び込んでくる。結局、八方塞がりでどうにもならない惨めな自分だけが今日もここにこうして存在している。たぶん「死んでもいいな」を諦めればそれで全部解決なんだけどね。そこは自分には内緒にしておこう。

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