底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私が本を読んでいるのか本が私に語りかけているのか

心地のいい時間

例えば本を読んでいる時、私が本を読んでいるのか、本が私に語りかけているのか、しばしば分からなくなる。同様にブログを書いている時も、私が文章を書いているのか、文章の方が私の手を動かしているのか、分からない。写真を撮っている時も、私が写真を撮っているのか、カメラに写真を撮らされているのか、はっきりとは区別ができない。そういう能動と受動が混ざりあって、もはやどっちが主語なのか分からないという場面が私の人生には往々にしてある。毎日ある。自意識が溶けていたのだと後から振り返った時にようやく分かる、たまらなく心地のいい時間である。




テキトーな仮説

普段も実はそうなのではないかとテキトーに根拠もなく仮説を立ててみる。私がコーヒーを飲もうと伸ばしたこの手は、完全に私による行為なのではなく、そこにコーヒーがあったから不可抗力的に吸い寄せられたのだと考えることもできるのではないか。ただ何かに集中しているのでない場合には自意識が強すぎて自分の側からしか物事を見ることができず、そう感じることが困難なだけで、本当は全ての行為は能動と受動に分けられない。どうですか?割と当たっているのではないですか?知らんけど。




端的に不思議

本を読んでいて意味が勝手に自分の中に立ち現れたり、ブログを書いていて文章がドバドバ降りてきたり、写真でも今だ!シャッターを切れと突然命令されたり、こういうのってどんな文脈で説明できる現象なんだろうか。私の力ではないことははっきりしている。でも完全に本や文章やカメラの力なのかと言えばそれも違う。少なくとも、そこには読もうとする私書こうとする私撮ろうとする私が必要なのだから。本当に不思議である。傍からはただ私が本を読んでいるようにしか見えなくとも、一人称の視点からそれを説明しようとすると、何が何をしているのか全く言えなくなってしまう。自分を主語に置くのも、本を主語に置くのも、どちらもひどく違和感が残るのである。




我を捏造している

「我を忘れて」という言葉がある。いかにも常識的な現実から考えたような言葉だ。これ逆なのではないかと思う。つまり物事に集中している時に我を忘れているのではなく、普段の現実こそが我を捏造しているのだ。何かにひどく集中していて受動と能動が上手く分かれていないのが「正常」な状態であって、自分が何かをしているのだと主語に疑いを持たない状況の方が「異常」なのではないだろうか。だって自分自身、完全に受動的に生まれてきた存在なのですよ?