底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

世界はもっと優しくなれるはずだ

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世界はもっと優しくなれるはずだ。少なくとも優しくしたいのに様々な事情によって現実的に今はそれができない人、は一定数いるに違いないのだ。個人的にはそういう人達の優しさが制限されることなく、そのまま放出された世界の方がよりよいと考える。だってそれは単純に優しさの総量が増えるということなのだから。優しさなんて、あればあるほどよいものだろう。少なくともあって困るようなものじゃないはずだ。しかしでは、現実的にそういう人たちの優しさを塞き止めているのは一体なんなのだろうかと言えば、これは偏に余裕のなさなのだと思う。

 

 

2

余裕がないから優しくできない。よく聞く言葉であるし、その通りであると思う。人は誰だって自分のことが一番大切で、その一番大切なものが危うかったりすると当然余裕なんてもてっこない。だがしかし、なぜ危うかったりするのだろう。だって現代において命の危機はそうそうあるものではない。少なくとも、危うさの根本は多くの場合に命にはないだろう。とするとその根本はどこにあるのか。その答えはずばり、精神や人格などではないだろうか。即ち、自分自身の存在というよりは自分自身の本質が危うくなっている場合が多い。

 

 

3

自分自身の存在は他人から簡単に加害され得る。なぜなら、他人はそれを目視でき実際に触れることができるから。だが、自分自身の本質となればそうはいかない。他人は基本それがどのようなものなのか、触れるのはもちろんのこと、見てとるのさえ叶わない。そこに直接アプローチできるのは、究極的には自分自身だけと言える。つまりは、実はほとんどの場合、自分自身こそが自分自身の本質を危うくさせているのである。

 

 

4

「〜してはいけない」「〜しなければならない」「〜するべきだ」「〜したらもう生きていけない」「〜になったらもう自分の価値がなくなってしまう」そんな数々の呪いの言葉を自分自身に浴びせてはいないだろうか。そんないくつもの呪いに縛られているから、余裕がなくなっているのではないか。もしそうなら、他人に優しくなれないのは、まず自分が自分自身に対して優しくないからだと言える。その呪いは本当に必要なものだろうか。その呪いを必死に守った先に一体何があって、破った先にも何があるのか。一度立ち止まって考えてみるべきではないか。世界はもっと優しくなれるはずだ。誰しも、もっと自分自身に対して優しくしても良いはずなのだ。だって、それは単純に優しさの総量が増えるということなのだから。優しさなんて、あればあるほどよいものだろう。

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