底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

銭湯から考える人間の思う力と真実の関係

銭湯大好き

今日は銭湯に行ってきた。お湯をはるという作業は私にとって酷くめんどくさいので、ゆっくりお風呂に浸かりたい時にはいつも近くの銭湯に行くようにしている。銭湯に行くとなぜか頭がよく冴える。裸でいることが原因なのか、湯に浸かっていることが原因なのか、銭湯の独特な雰囲気がそうさせるのかは分からないが、人生に対する思索のヒントを銭湯で得られる確率は、経験上とても高い。今日もお風呂に浮かんでいる泡を見ながらふと思いついた。例えば、私が振り上げた腕を少し勢いをつけて湯の中に入れる。すると、そこには十数個の泡ができる。もし仮にこの泡の一つ一つにも命があると想像したらどうなるだろう。一つ一つの泡にも家族があって友人がいて、それなりの感情を抱いているとしたら…?それで私はものの数秒で儚く消えてしまう彼らに情を抱けるだろうか。彼らの存在に配慮し壊さぬよう丁寧に扱えるだろうか。きっと無理である。なぜなら私にはどう頑張っても彼らに命があるようには思えないからだ。そう思えないということは人間にとって至極重要である。そう思えなくても、「実は」〇〇なんだと言われたところで、人間はその〇〇に基づいて行動することができない。「実は」の「実は性」を肌で感じられるのでなければ、その「実は」はまるで意味を持たないのである。

 

 

思う力

人間の「思う」はそれだけ強大な力を持っている。人間にとって、そう思えるものはそう「である」し、そう思えないものはそう「ではない」のだ。たとえそこに思っているものと全く異なる真実があるのだとしても、そう思えないのならそんな真実はないのである。ないということにするしかない。

 

 

科学は信じられている

科学は人間の「思う」を少し広げることができる。その食べ物は「実は」身体に悪いんだと科学的に証明されれば、人はその実感がなくてもそう思えるようになる。これはしかし本当は科学の力ではない。だって、どう悪いのか、どういう方法で証明されたのか、という所まで調べている人はきっと滅多にいない。テレビやネットでよく見るから、知人がそう言っているのを聞いたから、ほとんどはそのくらいでそう思えるようになっているのである。だから、これは人間の信じる力が成している技なのだ。人間はそう信じられれば、そう思えるようになる生き物なのである。

 

 

違いない

信じるは得てして無根拠である。あるものは信じられて、あるものは信じられない。その区別は何か明確な基準によって為されているわけではなく酷く感覚的なものだ。その酷く感覚的なものに頼って、我々は様々なことを思い、そしてそのままに現実を判断している。そうするのは決して悪いことではない。そもそも人生を歩むには、そうする他に手段はないのだから。しかしたまには思い出すべきなのだと思う。思うは思っているだけかもしれないということ。傲慢化を避けるためである。

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