底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ブログを始めて二回目の誕生日

たんおめ自分

あり

 

 

自覚がないまま数字がだけが大きくなっていく

二十六歳になりました。今まで色々な記事で今年二十六歳という書き方をしてきましたが、ついにここで正々堂々と今年の二文字を外して二十六歳と名乗ることができるようになりました。二十五歳のうちは二十五歳と言っておけばいいものを、なぜだか自分は実年齢よりも年上な振りをしたいようである。まだ精神がガキなのかなたぶん。二十六歳になって思うことは、へー自分は二十六歳なのかということ。これは誕生日を迎える度に感じていることなのだが、何歳になってもやはり全然自覚が持てないな。たぶん未だ年齢の意味をよく知らないせいだと思う。自分の年齢って「の」で繋げて言うくらいだから、つまりそれは自分の外にあるもので「自分ではない」ですよね?だから自分の年齢なんてのは、つまるところ自分の洋服や自分のスマホと同じレベル感の話では?なんてことをこの歳になっても尚思っていたり…。

 

 

あの時は二十四歳だったのか(遠い目)

ともかくブログを始めてから二回誕生日を迎えられたことはとても喜ばしい。このブログは一生続けていくつもりではあるので、その意味では単に当たり前の数字が積み重なっていっているだけであるが、何せまだ二回目なので新鮮感が残っていて、そんなに続いたんだという驚きの方が勝ちますね。二十四歳の時に始めて、今はもう二十六。そう考えると結構長い月日が経っているんだなぁ。

 

 

ブログの転換期

最近はこのブログの転換期である。上手くは言えないのだけど、自分のブログに向き合う気持ちやスタンスに何か大きな変化が訪れたりしそうな予感があったりなかったりしているところだ。初めて日付を飛ばしたかと思ったら、立て続けに二回もやっちゃったりして。もうこれからは普通に飛び飛びになるのかもしれない。自分でも全く先が読めないでいる。どんな形であれ続くことだけは確かであるが。

 

 

誕生の不思議について考える

最後におまけ程度に誕生日についての思索を残しておこう。自分が誕生した日を自らに知った人はいない。それはいつも親などの他者から聞かされるものである。なのに、それが自分の誕生した日になる。不思議ではないだろうか。単純に考えて、自分が誕生した日とは自分自身、自分は存在しているのだと初めて感じられた日でなければならないだろう。感じられる以前にも存在していたなどと言われたところで、そんなのは知ったこっちゃない。それが自分でないことは明確なのだから。だが、やはり人はその形でしか誕生できない。それは肉体的な話ではなく、そもそも自分が存在していると感じられるためには、感じられる以前に既に自分は存在していたのでなければならないという論理的な必然の話である。つまり、自分が誕生する以前に必ず自分は既に誕生しているのである。え、それってつまりどういうことですか?

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