底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ただできないと認めることから現実は始まる

言い訳ですね

この頃ネタがないネタがないと散々書いてきたけれど、ついに気づきました。そうだよ。このブログにネタとかそもそもないやん。逆に今までいつネタがある時があったよ。いつだってパソコンの画面にへばりついてからが勝負だったじゃないか。どの記事もキーボードをあーでもないこーでもないと叩きながら書いてきたんでしょ。今更ネタがないと言えるほどネタがあった時期なんて一度もないんだから。要するに体のいい言い訳だったんだろ。書く気力がない、いい記事を書けないことをネタがないせいにしたかったんだね。残念バレバレだよ。

 

 

ただできない…!

できない言い訳というのはどうしてこうあちらこちらに落っこちているのか。すぐ拾える距離にたくさん落ちてるの控えめに言ってもやめて欲しいわ。理性がちょっとでも鈍っていると簡単に脳が宝物と勘違いしてかき集めてしまう。トラップに等しい。それにしても、〇〇がある(ない)から自分はできなかったのだと思えた時の落ち着き具合ってなんだろな。なんでただできないじゃだめなんだろう。ただできないだと一体どんな都合の悪いことがあるというの。

 

 

言い訳があるメリット

想像はつく。要は「〇〇がなければ(あれば)私だってできた」と言えるための逃げ口があるかどうかの違いなのだろう。ただできないと認めてしまうとその逃げ口が封じられてしまう。だから常にできない言い訳がなければならない。言い訳さえあれば仮の分岐世界、自分がそれをできる可能世界が存在し続ける。そうすれば現実をそのままに生きなくても済むし、できたという妄想をひたすらに膨らませられる。そのことと表裏一体でもう一つ「〇〇がある(ない)限り自分はできないんだ」と言えるのもあると思う。つまりは今度は自分ができないのは〇〇がある(ない)せいで仕方のないことなんだ、自分の力ではどうにもならないのだと諦める材料にもなってくれるというわけである。

 

 

特に私、あなたに言っていますのよ

ただできないと認めるのはあまりに惨めだ。何のせいでもないできないはそのままそれが自分の実力だったことを表す。その自分の実力を正面から見つめるのは大変に苦痛を伴う。だからついつい周りを見渡して直視を避けられるようなものが落っこちてないかと探しては、手当り次第に拾い上げてしまう。悪癖ですね。別にできないことは恥ずかしいことじゃないんだから、惨めだと思う必要はない。どうしても惨めだと思うなら、 一度きちんとただできなかったと認めた上で、どうしたら次はできるようになるのかと考えればいい。というか惨めさを克服したいなら本当はそれしか道がないことは誰も彼もよく分かっているはずなのだ。

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