底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ブログの役割とはなんだろうか

文章のそれぞれの形

文章には色々な形がある。日記や詩や小説や新聞や専門書やエッセイやSNSのつぶやきなどなど、種類は実に豊富である。それぞれにそれぞれの役割があり、果たしている意味がある。じゃあブログは?ブログは文章としてどんな意味を持っているのか。今回はそれを考えていきたい。単に自分の記録を残すなら日記でいいわけだし、誰かに自分の気持ちを知って欲しいだけならSNSで短く呟けばいい。何か自己表現したいにしても、ブログである必然性は特になく、むしろ詩や文章以外のものの方が向いているような気がする。もしブログにしか成せない役割があるとしたら、それは一体どんなものなのだろうか。

 

 

ブログと他の違い

ブログはまずほとんどにおいては個人が書くものだ。ビジネスでもなければ、大抵は一人でネタを考え、一人で文の構成を練って、一人で執筆する。そして、校閲するのも、投稿するのも、最初から最後までそこには自分しかいない。そこが本や新聞と異なる点である。次にブログはインターネット上にある。それはつまり不特定多数に読まれる可能性があるということ。これは日記と大きく違う点だ。SNSと比べては、ブログは作品に近く、より他人に読まれることが前提されると言える。だがそれは小説や詩ほどではなく、所詮は作品に近いだけで、完全に作品であるわけではない。ブログはもっと日常の傍にあり、その基本はブログの名の通りやはり記すものである。

 

 

答えは

一人で全ての作業を行う。不特定多数に読まれる。中途半端に作品であり、中途半端に記録である。その形式の中での文章が果たす役割とはどんなものか。求められているのはなんであるか。それは少なくとも、新聞や専門書のような正確性ではないだろう。或いは、詩や小説のような純粋な一つの作品としての面白さでもないだろう。更には日記やSNSのような超個人的な情報でもないはずである。ずばりその隙間を掻い潜り、残されている答えは「自分自身が価値に思うもの」ではないろうだうか。

 

 

ブログの役割

日記に閉じ込めておくだけでは勿体ないと感じるような、かといって作品に昇華させるのは酷く難しいような、それでいて正確性が微妙に危ういような、ブログとはそれらを一身に請け負うための媒体だろう。日常で得られた小さな気づき、自分の目に綺麗に写ったもの、心を捕らえて離さないこと、正義としか思えないような考え、他人は抱えていなさそうな自分の内にだけにある思い。人それぞれの自分の胸に強烈に焼き付いている全てのことを吐露する場、それがブログというものの担っている役割ではないだろうか。

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