底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私が本を読む理由

たぶんね

二十五年生きて来て、本というものを常々読むようになったのはたかだか最近の三、四年である。本を手にとるようになったきっかけは今ではもうよく思い出せない。振り返って考えるにあの頃の自分は孤独だったのだと思う。それは偏に私が勝手に自分の考えていること、自分の思っていることを奇異だと思い込んでいたために、誰か他の人にそれを話すのをひどく恥じらったからである。いわば自分で自分を孤独の檻に閉じ込めていただけだったのだけど、結果的には大変よかった。たぶんその孤独こそが私を本の世界へと誘ったからである。

 

 

動機の変質

最初に読んだ本のタイトルもはっきりとは覚えていない。ただ次から次へと貪るように読んでいたのは確かである。この孤独には理解者がいる、それどころかこの孤独の何千歩、何万歩先を歩く先駆者がいるという確信を得ることができたのだ。孤独が癒えていくのがただただ嬉しくて、その感覚を何度も味わいたくて、とにかく片っ端から気になった本を買っては読み買っては読みを繰り返した。そんなことをしているうちにやがて本を読む動機は少しずつ変質していった。自分にはもっと知らなければならないことが山ほどあるなぁと、読めば読むほどに分かったのである。

 

 

逃げ場であるだけだった

「知りたい」ではなく「知らなければならない」がポイントである。私は孤独が癒えた時点でもう満足していたのだ。世界には私と同じ「ような」ことを考えている人がいると知ってその喜びを何度も噛み締めていた頃には、自分が何を考え何を思っていたかなど、果てしなくどうでもよくなっていた。これが私が底辺たる所以である。私は最初から孤独など持ち合わせてはいなかったのだ。ただ現実において上手くアイデンティティを確立できなかったために、偽物の孤独をつくって逃げ場にしていたに過ぎなかった。孤独をきちんと持っている人なら、どんなに似ていようとも絶対にそれを自分と「同じ」孤独だとは認めないだろう。それこそがその人が孤独であることの原因であるはずなのだから。

 

 

私の孤独 どこ

人に本を開かせるのは孤独だと私は思う。孤独が「正しく」癒えることを求めるから本を読むのではあるまいか。そしてそれがつまり「知りたい」ということの意味であるはずだ。しかし私の場合は既に癒えてしまった。偽物だったためにいとも簡単に溶けたのである。だから私は「知らなければならない」。今度こそは「正しく」本物の孤独を見つめるために。自分だけが持っている自分にしかない孤独とは一体何なのか。その答えを探して私は本を読むのだ。他人の孤独を知り、その余白として自分の孤独を浮かび上がらせるために。

shikouzakki.hatenablog.com

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