底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

何かを消し去りたいのなら塗り替えをしよう

消し去るは難しい

一度存在したものを完全に消し去ることは容易ではない。なぜなら、そこには人の記憶があるから。関わった全ての人が忘れるのでない限り、ものは形を変えてあり続ける。だから、もしこの世から何か消し去りたいことがあっても、簡単には成し遂げられない。忘れるはその本人でさえコントロールできるような能力ではないから。忘れてとお願いし、相手がそれを承諾したところで何の意味もない。できるのは、自然的に忘れ去られるのをただ待つだけである。

 

 

でも方法はある

では、この世から消し去りたい物事がある時、人には何も為す術がないのかと言えば、そんなことはない。自然的に忘れ去るスピードを早めることは十分に可能なのである。つまりは塗り替えだ。新たな物事を持ってきて、人の記憶を更新していくのだ。直接に働きかけられなくとも、別のものを持ってきて、間接的にそれを隅に追いやることはできる。というか人が何かを消し去るには、そもそもこの方法しかないのだと思う。「ある」を綺麗さっぱり消し去って、「ない」に変えられるのは神様だけではないかな。人には「ある」を「別のある」に変える程度の力しか与えられていないであろう。

 

 

どちらかでいよう

だから、逆に言えば、別のあるを提供できないのに、何かを消し去れ!と言うことはひどく酷である。そんな能力、人は持ち合わせていないのだから。端的に無理がある話だ。その存在を容認するか、できないのなら、それに変わる別のあるを考えて提供するか。どちらかであるべきである。存在は容認できないし、別のあるを考えるのも嫌だけど消し去りたいから消えてとだけ言う、というのは偏に世界を自己中心的に捉えすぎである。

 

 

何もしないなら口を噤む

今あるものは、全てもうあるのだ。時間は決して巻戻らない。その中から無くしたいものがあるなら、どうにか新たな方法を考えるしかないのである。つまりはそのものに変わる別のあるを作り上げるか、そのもの自体を別のあるに作り替えるか、二つに一つだ。どちらかを選んで自分の手で成し遂げなくてはいけない。もしどちらもしたくないのであれば、自然的に消えるまで口を噤んで大人しく待っていよう。

 

 

反対の場合も同じ

今あるものをあり続けさせたい時も同じである。今度は別のあるに塗り替えられないような努力が必要になってくる。放っておいたら勝手に消えた、という言い分は通じない。それは自分が管理を怠っただけである。何かを消し去りたい時も、何かを消し去られないようにしたい時も、どちらも自分の頭で方法を考え、自分の手でそれを実行していかなくてはいけないのである。

f:id:kabiru8731:20221227070445j:image