底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言葉の存在意義

言葉の三つの存在意義

言葉とは何のためにあるのか。最近の私が出した主要な答えは三つだ。一つ、他人に交じるため。二つ、他人に要求を通すため。三つ、自分の魂を見せるため、である。話の内容とか相手の反応とか、そんなのは二の次で、とにかく自分が喋っては相手が喋る、そういう交互性のあるやり取り自体を目的として言葉を交わす。これが他人に交じることだ。代表的なのは挨拶。やり取りの行為を通して、自分がその場に参加している一人であると安心できるのである。「コーヒーでお願いします」「この資料のここ直して貰えますか」「雨が降っているから迎えに来て欲しい」。してもらいたいことがあるから、何かを言う。他人に要求を通すは、日常的に言葉の一番頻繁な使われ方かなと思う。と同時に最も本質的な使い方でもあるだろう。言葉の必要性を考えればこれは自明なことだ。最後は、ただ知ってもらいたい。ただ見ていて欲しい。あなたに言葉が届くそのことに意味があるのだというような場合である。つまりはこれが自分の魂を見せることだ。ここでの魂とは自分の気持ちや思い、考えや視点を総称したものである。伝えてどうしてほしいなどは一切なく、ただ伝わることが目的の全てなのだ。

 

 

単純明快

…などと分けてはみたものの、結局は三つに共通していることが何よりの言葉の存在意義なのだと思う。つまりは、単純で分かりきったことだが、言葉は伝えるためにこそあるのだろう。他人に交じるとは言い換えれば、自分も一人の人としてここにいるよと伝えることであるし、要求を通すと魂を見せるは、もう言うまでもない。

 

 

言葉にするに限る

人に何かを伝えるための手段として最も使い勝手がよく広範囲に対応しているのが、言葉であろう。身振り手振りや表情などは、ドンピシャでハマればそれ以上分かりやすいものはないけれど、残念ながらすれ違うのが大概である。言葉はその間、ドンピシャにはいかないけれどすれ違いも少なく、八割方を伝えるものとしてかなり優秀である。だいたいのニュアンスというやつだ。日常ではそのくらい伝われば十分だろう。何か伝えたいことがあるのなら、やはり言葉にするに限る。確かに日常の中では「言葉にせずとも伝わってほしいんだ!」というようなことが、特に親しい人との間ではよくあるのかもしれない。けれど、どんなに親しくとも、結局は人と人の関わり合いである。伝わって欲しいと思うなら、尚更に言葉にしなくてはいけない。言葉だけが人と人を深いところで繋ぎ、その間を上手くとりもつことができるのである。

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