底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

個人に生きる喜びを与えるのが先決

一瞬生きるだけなら誰にでもできる

人は一人では快適に長く生きていけない。存在するのは自分の力ではないから一瞬生きるだけなら生まれてきた全ての人に可能であるけれど、それをより快適なものにしていくことと、より長く続かせていくことには他人の力が必要不可欠である。安全で過ごしやすい住居、上質で安心できる食べ物や飲み物、健康や寿命を長く持たせるための知恵や技術、平安平和が保たれた社会環境、人生を豊かなものにしてくれる教養や娯楽、そういうものを一人で全て手に入れるには、人間の一生はあまりに短いし、物理的に不可能な部分も多くある。だからこそ、人同士は今まで協力するという道を選んできたのだろう。

 

 

若干妄想も入ってます

だが、逆にこう言い換えてもいいわけだ。即ち、人同士の協力はより快適により長く生きていきたい人にとってのみ有益なことであるのだから、もし快適さにも長く生きていくことにも興味が無いのなら、別に協力する必要などない、と。これは紛れもない真実であるように思う。協力したところでその本人には何のメリットもないのは目に見えているだろう。しかし、それを言うことはもはや許されない。なぜなら、世の中は既に快適で、人は既に長く生きられるからである。もはや人はなんの協力をしなくても、その恩恵だけを受けて生きていけるのだ。だが誰しもがそうして生きれば、世の中はいとも簡単に崩壊する。だから誰一人、皆を出し抜いてそう生きることのないよう、真実を隠蔽し、たとえ快適さにも長く生きていくことにも興味が無いとしても、協力「しなければならない」ということにしたのである。

 

 

私には多く見える

おかげで、現代はその「しなければならなさ」に苦しめられている人が随分多いように見受けられる。ただでさえ自分が快適に長く生きていくことになんの喜びも見いだせないのに、その上で「しなければならない」だけを一方的に要求されて、ますます何のために生きているのか分からない。もはや死んだ方がましなのではないか、とさえ思えてくるような人のことである。

 

 

逆であってはならない

個人に生きる喜びを与えるのが、まず何よりも先決なのだ。協力はその喜びから芽生える自然的な傾向であらねばならない。強いることは一時しのぎにはなっても、やがて社会全体が傾く要因になる。自分が長く気持ちよく生きていたいから、そういう社会にしたい。順序は必ずこうである。そういう社会が良いものだから、あなたはそれに従って生きなければならないというのは、それに従えない人を端的に苦しめてしまうし、最初からそんな社会の良さに微塵も興味がない人にとっては、そもそもちっとも響かないのである。

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