底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

またこの話ですか

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ここ最近の記事を読み返したら、「あれ?同じことしか言ってなくない?」と思い至りましたが、今日も相も変わらずその話をしていきたいと思う。私の人生にとって一番大事なところだもの。何千回語っても多分語り足りないね。さて、今日は再び不足についてのお話。この一年半、私は不足を意図的につくりだし、それを利用して記事を書いてきた。いわば自分自身をわざと飢餓状態に追い込み、それで血眼になって食べ物を探してもらっていたのである。で、探し当てた食べ物をみんなに見せて「どう?私すごいでしょ?」とひけらかす随分と不健全な遊びにずっと耽っていた。お腹が空いてる極限状態なら、誰だってそうするだろうということを、さも自分の能力のように誇っていたのだ。恥ずかしい限りである。それにこんな不健全な遊びがいつまでも続けられるはずないとも自覚していなかった。状況に助けられた幸運であること、均衡は簡単に崩れ去る可能性があることを知らなかったのである。

 

 

2

今、私はその飢餓状態を脱し、健康的で程よい空腹とそれに見合う食事を毎日繰り返している。最近の記事が似たり寄ったりになっているのは、そのためだ。つまりは私にとっての本来の分相応な言葉がこの程度であるということだ。私はそれを受け入れていきたいと思う。それが自己満足へと至る道だと信じたから。

 

 

3

私は本当はもう満足しているのだと思う。でも昔はその満足している自分に満足できなかった。貪欲になれず、もっと上が見ているのにそれを目指さず、怠惰な生活を送っている自分を心底嫌っていた。嫌っていたが、しかしそれを変えるだけの志も目的もなかったので、仕方なく変えざるを得ない状況を意図的につくり出して自分を追い込んだ。そのために、満足している自分に満足していない自分を満足させるために生きるという酷く歪な構造になってしまった。

 

 

4

真にやるべきなのは、満足していない自分を満足させようと更に追いかけるのではなく、満足していない自分をそれごと消しさることだったのだ。そうすればこそ、満足している自分だけがそこに残る。自己完結し未練の少ない生が開ける。代わりに自分の外側はどんどんとつまらなくなっていくでしょうが、それは内側がより満たされていることの証。元々自分の力ではなかったのだから、失ったと言うのさえ烏滸がましい。本来の自分に戻っただけに過ぎない。どう?私つまらないでしょ?でも、そのつまらなさが私なのだ。清々しい開き直りをしていこうと思います。

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