底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

カテゴリーと個について

1

個人を初対面で理解するのは不可能だ。目の前の人が何をして欲しくて、何をされたくないのか。それを知るには実際に本人とコミュニケーションする他ない。そのコミュニケーションを簡単にする手段として、カテゴリーが存在する。カテゴリーがあれば、自分はこのカテゴリーに属している人なので、これをして欲しくて、あれはされたくありませんと、即座に説明することができる。カテゴリーは人々の理解を助け、それを広めることに対し有効的である。つまりは便宜上のものであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

2

個を尊重する時、カテゴリーを無闇にしてはならないという風潮がある。目の前の人を自分の独断で勝手にどこかにカテゴライズするのは確かに良くないと言える。それはただの偏見だ。だが、カテゴライズ自体を避けることはできない。人はそうしてでしか物事を理解する手段を持たないから。やはりいずれはどこかには押し込められなければならない。社会で大抵、初対面の人に対して「何をしてる人ですか?」と聞くのはそのためである。仕事はカテゴリーとして大変に分かりやすい。しかし、所詮は押し込みなのであるから、どんなカテゴリーにもピッタリハマることはない。自分という存在はどこからも、結局ははみ出す運命にある。

 

 

3

個をカテゴリーなしに尊重しようとするなら、関わらないというのが最適解になるだろう。関わることがなければ傷つけることは絶対ないのだからこれは当然だ。個が尊重されることを望みながら、その一方でカテゴライズされることを嫌えば、人と人の関係は希薄になっていかざるを得ない。カテゴリーがなければ、どう尊重すればいいのか端的に分からないのだから、敬遠するのは当たり前であろう。

 

 

4

個を尊重し皆が共存していくためにこそ、ある程度カテゴライズすることは避けられないのである。自分という個とカテゴリー自体の微小な差異には目を瞑らなければならない。その微小な差異を仕方ないものとして腹を括らず、カテゴライズ自体を避ければ、誰にも存在を認めて貰えなくなる。

 

 

5

尊重されたいのなら多少の失礼は許していかなければならないし、尊重したいのならできるだけ大枠のカテゴリーと目の前の人の微小な差異に目を配らなければならないのである。カテゴライズ自体を避けるという選択をするのではなく、絶えずカテゴリーしたりされたりの世の中でどう上手く生きていくか、それの方を考えるべきなのだ。カテゴライズ自体は別に悪ではない。

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