底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

愛したいのに愛せない

1

何かを愛したいのに愛せない。そういう時、本当にたまらなくやるせない。どうして愛せないのか、その答えは一つしかないからだ。自分の小ささ以外に、いかなる理由もない。自分が小さいから、小さい自分を守るしか能がない。小さい自分を脅かすような存在を許すことができない。共存することができない。こんなにも小さい自分を、まず何よりも愛しているから。 

 

 

2

愛したいのに愛せない何かがあることは当然、その何かを愛せない自分を愛せないということであるから、自己愛をもつ人間にとって、これはひどく具合の悪い状態と言える。そんな時に人が走りがちになる態度があると思う。それは軽蔑ではないかな。軽蔑をすれば、愛せないのは相手のせいということになる。自分が小さいから愛せないのではなく、相手自身に、人に愛させないようなポイントがあるから仕方ないのだと、そう自分を正当化することができる。すれば、小さい自分に目を向けなくて済むし、責めなくても済む、これで自己愛を取り戻せるのだと考える。でもそんなのは無理である。ある種の人を軽蔑するのは、自分は絶対にそうはなりたくない思いと表裏一体である。つまり仮にそうなった時の自分をも軽蔑するということであり、そうなった時の自分をやはり愛せないということだ。自分は絶対そうはならないと豪語してみても、人生の自分がコントロールできる部分なんてたかが知れている。自分を愛せない可能性を残してしまえば、結局自己愛は欠損してしまう。

 

 

3

自己愛を満たすには、現にここにある自分だけを愛すのではだめである。今まで自分であり得た全てと、これから自分であり得る全ても愛せるようにならなくちゃいけない。だけど、そうは言っても、愛せないものは愛せない。無理をすれば愛せるようになるものでもない。ならどうすればいいのだろう。

 

 

4

愛で肝要なのは、距離だと私は思う。近くにいれば愛せないものでも、離れてみると案外平気になったりする。小さい自分が脅かされない距離で、全てを愛していけば良いのだ。小さい自分はどうしたって付きまとう。それは努力すれば無くせる類のものではない。だから、小さい自分の安全が守られている場所から届くだけの愛を唱える。これは臆病なことだろうか。そうかもしれない。でも何かを愛せないよりは幾分かましであるはずだ。臆病でもなんでも、私は愛した。そう言えればいいのである。愛せない自分を作り出さないことが、何よりの最優先事項なのだから。

f:id:kabiru8731:20240530011318j:image