底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きづらいのは数が少ないから

1

生きづらさの最たる原因は、人数の少なさにあると思う。社会は常に多数の生きやすさに焦点を当てており、その陰で苦しむ少数はまぁ仕方ないと切り捨てるしかない。多数と少数のどちらかが絶対に苦しむ羽目になるという二択に迫られた時、やはり多数が救われ選ばれる。社会の構造的にそうならざるを得ない。少数は常に弱い。足掻いてみせたところで待っているのは、多数に干渉しないところでの生存の許しだけである。私たちの邪魔にならないところで好き勝手やってくれ。それが多数と少数の唯一の"共存"の仕方だ。それだからこそ少数は生きづらいのだけど、多数にとってはそんなの知ったこっちゃないのである。

 

 

2

ある属性を持つから、生きづらいのではない。それを持つ人が少なく、社会がそれを持つ人を前提に形作られていないから、生きづらいのである。生きづらさから抜け出すには、人数を増やす他ない。それが脱ぎ捨てられない自分の属性であるならば、その属性を持つ自分に社会の方が適合してもらうしかない。傲慢なようだけども、それ以外に如何なる方法もないであろう。少数と多数の二択ではなく、どちらも生きやすくするのがそりゃあ理想だが、そんな未来はきっと自分の生きているうちには訪れない。

 

 

3

ある属性を持つ人が生きづらいから、その属性を持つ人間をこれ以上増やさないようにしよう。そう考えるのは逆効果だと個人的には思う。少ないから生きづらいのである。生きづらいから少なくしようというのでは、話があべこべではないか。むしろどんどん増やすべきだ。その属性を持つ人が多くなればなるほど、社会はその存在を無視できなくなる、考慮した上での社会づくりが必要になってくる。そうなればこそ、生きづらさは解消されていく。

 

 

4

多数に理解されるというのは、ほとんど幻想である。感覚の違う他人同士が分かり合うのはいかにしても不可能であるし、多数からすれば理解する義理もない。多数は多数でただ自分たちの生活を送っているだけである。そこに見ず知らずの他人が「理解してくれ」と言ってきても、同情を誘う内容ならともかく、普通は知りませんとなるのがオチである。それに今までの生きやすさを失うのは誰だって嫌なはずだ。この場合の理解することは譲歩することとなんら変わらない。自分たちがこれまで享受していた生きやすさを譲歩しなければならないとなったら、それこそなぜわざわざ?という話だ。だがしかし、こちらの数が多くなるだけで、多数にとっては譲歩した方が生きやすい状況になる。そうなれば、もうあとは時間の問題である。

f:id:kabiru8731:20240619014834j:image