底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

有意義な時間について書いた無益な記事

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スマホばっかりいじっていると聞こえてくる。もっと有意義に時間を使えよという声。これに負けじと有意義な時間ってなんだよ!と叫んでみるものの、しかし有意義な時間がたとえどんなのであれ、スマホをいじっているこの時間が有意義でないことだけははっきりしているので、素直に負けて、スマホいじりの中でも、まだ意義があると感じられるブログの執筆を今始めたわけですが、本当に有意義な時間とはなんなのでしょうか。あぁ実に有意義な時間だったなと振り返る瞬間が人生には確かにあったと思うけれど、それは果て一体どんな時だったろうか。

 

 

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ブログを書いている今を意義があると感じられのは、それが今の私だけに影響することではないからだ。私は昨日の私からバトンを受け取り、明日の自分にバトンを渡さなければならないという責務の最中にある。今書くのを止めれば、昨日の私は悲しみに暮れ、明日の私はほとほと自分に呆れ返るに違いない。そうならないために、書いている。だから意義があると感じられる。つまりは過去にしろ未来にしろ時間的な前後に何かしらの影響を持つ事柄に人は意義を感じとる。もちろん悪い影響の場合は意義とは普通呼ばないけれども。

 

 

 

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しかし昨日の私が悲しみに暮れ、明日の私がほとほと自分に呆れ返るとしても、それがなんだというのだろう。所詮はただ自分が少しくらい苦痛な思いをするだけではないか。別にどうということはない。本当にそうなのである。意義を果たしたとして、その意義を果たす意義は何かと考えると、途端に全ての意義が失われていく。やはりここに対しては思考停止しなくてはいけない。意義の意義は問うべからず。

 

 

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今自分が動き出した瞬間に、すぐにその行動の結果を得られるものには、人は意義は感じられない。快がその最たるものだ。スマホをいじる時間が有意義に感じられないのは、その時間が尾を引くことがないから。ただスマホを見たいという欲が瞬間的に満たされるだけで、終わってみれば何もそこには残らない。だから無駄に感じられる。

 

 

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今日の記事は、読んだ誰かにとって有意義なものとなり得ただろうか。分からない。書いた私にとってしか意義がないと、個人的には感じる。こんな、なんの知識を得られるでもない、なんの面白みを味わえるでもない、淡々とした個人の記述的な記事が誰かにとって意義があるとすれば、それはどんな意義なのか皆目検討もつかない。こんな文章は人様のスマホいじりの時間にひっそり消費されて、それで終わりなくらいが妥当に思える。

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