底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

お姉さんと私の日常

1

仕事から帰るとき、近所でいつもすれ違うお姉さんがいる。おそらく活動時間帯が被っているのだろう。知人でもないのに、毎日のように顔を見るというのはなんだかすごく不思議な気分だ。お、今日もいた。ついにはこの頃、そうして姿を探すほどになってきた。ただただ街の風景であった雑多な人々の中で、もうお姉さんだけは違って見える。すれ違うことのなかった日には、今日はどうしてるのかなとさえ考える。赤の他人なのに。お姉さんは完全に私の日常の一部になってしまった。きっとこれからも言葉を交わすことはないだろうし、人生を交えることだってあるはずもない。だけれども、既にお姉さんは私の日常の中に存在していて、そこにいるのが当たり前であり、いないともはやどこか変なのだ。

 

 

2

お姉さんこそが私が目指していたブログの形かもしれないと、ふと考えた。毎日毎日あげる意味がここにあって、たぶん誰かの日常にそっと溶け込むことを期待している。一日一つ必ず上がる、上がらないと変だと思われる。そんな形で人の意識の中に存在できたなら、こんなに光栄なことはないと思う。誰かの一日に、私のブログを読む、或いは上がっているとチェックするだけのことでも、その生活時間の中に組み込まれているのであれば、本当に嬉しい限りである。

 

 

3

だからできることなら、毎日毎日読んでも飽きないくらいのアクセントのある面白い記事を書きたいと思うのだけど、今のところ残念なことにそれを書ける目処は全く立っていない。まあでもこういうのは縁でもあるから、あまり無理せずに楽しんで読んでくれる人がいたらラッキーくらいの気持ちで、マイペースにその都度自分が書きたいと思うものを書いていこうと思います。

 

 

4

普段意識していないだけの自分の日常の構成要素というのは本当にたくさんある。その一つ一つどれも欠けるときっと違和感を持つはずなのに、しかし欠けるまではあまり気づかれない。欠けてから気づいても遅い、ということも人生にはしばしば起こりますが、やはり欠ける前にそれを知るのは至難の業である。大抵は欠けてからその大切さを噛み締め、やるせなさに打ちひしがれるしかないのだ。もし最初から意識して大切にしてしまえば、もうそれは日常とは呼べない。自らに意識していなくとも、勝手に意識に上がりこんできたものをできるだけ抱きかかえ、欠けていったものたちに対してはその大切さを噛み締め、やるせなさに打ちひしがれた後で、キッパリ諦める。それが日常に対して、人がとれる最善だと思う。

f:id:kabiru8731:20240621020925j:image