底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分のできること

1

何もやり出していない時は、なんでもできる気がするのに、いざやり出してみると自分のできることのちっぽけさに心底絶望してしまう。どうして人はあんなにできるのに、自分はこんなことしかできないのだと比較してますます落ち込み、そして自分が落ち込んでいる間も、人は絶えず努力をしているのだと思うと、本当に自己嫌悪で消えたくなってくる。しかしそれでもやると決めたから、やり出していなかった頃の自分に戻る選択肢はもうない。己のちっぽけさを知り、絶望して落ち込んで自己嫌悪に陥っていても尚、私はやらねばならない。

 

 

2

毎日毎日書いているこれがちゃんと積み重ねになっているのだろうか。時々疑問に思わずにはいられない。ひょっとしてただ同じことを繰り返しているだけで、何も前に進んでいないのではないか。自分のできることの中に閉じこもって右往左往しているだけで、ずっとそのできることの幅は広がっていないのかな。でもまぁそれも当然かもしれない。とりあえず毎日一つ書くしかやっていないわけだから、これで前に進んでいたら、それはそれでなんで?と逆に疑問を抱くな。前に進むような要素をそもそも生活に取り入れていないのだから、ただの繰り返しでもなんら不思議はない。

 

 

3

何十年先に自分の死を想定して、残された時間で自分のできることを極限まで拡張したらどの辺に辿り着くのか。大人になるともうある程度予想がつく。自分に無限の可能性があると信じられるほど無垢でないし、嫌でも現実がそれを突きつけてくる。本当にたかが知れているなと思うのである。寿命があるってだけでもやれることは限られているのに、その中でも能力の低い方の人間だから、たぶん何十年後も今の自分に毛が生えたくらいの存在にしかならないのだろう。加えて極限まで拡張するなんて努力も、全然していないのだから、もう毛すら生えるかも怪しい。

 

 

4

個人的に、努力ができない最大の要因は努力してまでそれをできるようになりたいと自分が考えていないから、だと思っている。環境や遺伝子や様々言われているが、努力というのは何も過酷なものだけを指すのではないから、例えば10秒やってみるだけというのでも、立派な努力である。それはきっと靴を履くよりも簡単なはずで、もしその10秒さえやり出せないと言うのなら、もう単にやりたくないだけでしょう。つまり私は本当は文章を上手く書いたり、できることを増やしたいなんて考えていないわけだ。ただ単にこのブログが続いていけばそれでもう満足なんでしょ。絶望するのも落ち込んで自己嫌悪したりするのもただの気まぐれなんだよね。

f:id:kabiru8731:20240624041928j:image