底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

芸術は隣に生きる孤独

1

自分は芸術というものの真意を読み取るのがとても下手くそな部類の人間なのだと思う。映画しかり絵画しかり音楽しかり、オモシロカッタ、キレイダッタ、ナンカイイキョクダワ、くらいの感想しか抱けず、その作品の意味するところなんか全然分からない。でもそれでも芸術が好きである。それは単に娯楽として楽しいから、というだけではない。作った人の孤独に触れられるのがたまらなく好きなのである。私は孤独を自覚する人間が大好きだ。死ぬ時には絶対にひとりであること、他人に百パーセントの何かを伝えるなど不可能であること、そういう絶望に値する現実にしっかりと絶望したところから、人の芸術は始まる。

 

 

2

芸術は絶望からの諦念によって生まれる。自分の人生を尽くしても、世界の真実を知ることができない、他者とも全てを分かり合うことができない。ならば自分が生身で感じたところのちっぽけな真実だけでも、せめて分かる人には分かってもらおう。世界の真実は知りえなくとも、私の世界の真実は知ることができるから。他者と全てを分かり合えなくとも、分かり合えないと分かり合うことはできるから。私は私の世界の真実を示すだけ。あなたはあなたの世界の中で、それを好きに咀嚼すればいい。

 

 

3

芸術の良いところは感性に訴えるところだ。感性に訴えるものは全て、作る側と受け取る側が対等である。作る側は「こう感じて欲しい」を作品に込めることができるけれども、だからといって「そう感じない」を不正解とすることはできない。感性はあくまで自由で、どう受け取るのも人の勝手である。作る側は自分の作りたいように作り、受け取る側も自分の受け取りたいようにそれを受け取る。どちらも気ままであることが許されるのが本当に素晴らしい。

 

 

4

私はやはり人の芸術の中身にまで深く興味を持つことはできない。ただ人が芸術を発しているという事実があるだけで満足してしまうからだ。隣に生きる孤独がある。そう感じられれば、もう他は何も必要ない。ただただ死ぬその瞬間までどうか永遠に孤独な真実を見続けてくれと願うのみである。自分の生身で感じたところの真実は、結局自分にしか表現することができない。それをどこまでも誤魔化さずに極めていく。他者の芸術からは一時の救いや癒しは得られても、必ずどこかで自分の孤独と道をたがう。それをまた別な他者の芸術で埋めていくこともまた一つの人生であるけれど、みんな一度は作る側に回ってもらいたいな。ただの私の願望。もっともっと隣に生きる孤独が増えればいい。

f:id:kabiru8731:20240613010141j:image