底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きるそのことが好き

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好きでこの世に産まれてくる人はいない。みんな一方的にある日突然、人生を始めさせられただけである。しかし、それでも生きることが好きだ、という人はいる。好きで産まれてきたわけではないけれども、産まれた結果としての生きていることは好きだと、そういう人が存在する。そういう人がなぜ生きていることを好きになれるのか。それは生まれる個体や環境に恵まれたからだよ、というのが通常の答えなのかもしれない。この世を生きるのに有利な個体のスペックと、豊かで優しい環境があるからこそ、生きていることを好きになれるのだ、と。見渡すと確かに世の中にはそういう価値観が蔓延しているようである。そのスペックと環境を与えられないなら子供をつくるな!なんて過激な思想までチラ見えするようになってきてた。どうも「生きるそのこと」を好きになれるかどうかは、「その生きること」を好きになれるかどうかで決まると、広く考えられているらしい。

 

 

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生きることが好きだと言えば、皆が想像するところはやはり幸せな人生なのだろう。幸せだから生きることを好きになれる。幸せでなければ好きになれるはずはない。生きることにおける幸せと好きとは不可分な因果なのであって、幸せとは独立に生きることを好きになるのは決してできないと、なぜかそう強く信じられている。

 

 

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しかし、当たり前であるが本当はそうではないだろう。幸せでなくても全くもって生きることを好きになれるはずだし、むしろ、そうであるべきである。生きることの一部分でしかなく、かつほとんどが運である幸不幸に自分の人生の好き嫌いを委ねる必要がどこにある。逆に言えば幸せな人生を嫌うことだってあってもいいのだし、人はそのくらい自由なものである。

 

 

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私は自分を幸せだとはあまり思わない。他人から見てどうかは知らないが、少なくとも自分が生きていて幸せだと思うような瞬間はせいぜいご飯を食べてる時くらいだ。生きるのに有利なスペックは持ち合わせていないし、豊かで優しい環境もない。でもやはり私は生きていることが好きだ。底辺であろうとも、毎日が過酷でも関係ない。だって私が好きなのは「その生きること」ではなく「生きるそのこと」だから。人生の内容ではない、人生そのものが好きなのである。好きで産まれたのでもないのに、こんなにも失いたくない。ううん。好きで産まれたのではないからこそ、こんなにも失いたくないのである。どのようにして自分が生まれのか、その不思議を考え思い馳せるだけで私は全てを好きになっていける。

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